続「ヒットソングのつくりかた」 
不定期連載 第1回 (11年前のブログを最小限の直しを入れています。)

 新レーベルTRATTORIAがスタートする前にもうひとつのレーベルが生まれようとしていました。岡井大二さんが私を訪ねて来たのは、91年の初めの頃だったと思います。大貫妙子さんのバックをお願いした76年以来ですからおよそ15年の間がありました。岡井さんの話の内容は以下のようでした。ソニーのオーディションを通り、レコーディングがせまっているのだが、方針の違いに戸惑っている兄弟バンドがいます。あるコンテストで、兄弟が15歳17歳時に知り合い今日まで交流してきたが、その音楽の知識、理解度では自分もかなわない力をもっています。彼らのやりたがっているポップス=音楽を一緒にプロデュース出来ないでしょうか?それが始まりでした。岡井さんとはその後会い続けていましたが、なかなか決心がつきません。ひとつはソニーという会社は優秀ですし、アーティストを売るといことでは力がかなりあります。その源は、当時ずば抜けたマーケッティング力にありました。今、市場は何を欲しているか?どうすればそのリクエストに答えられるか?ソニーがその兄弟に要求してきたことはそういうことであると思いました。既に時間もたっており、従来あったかもしれない兄弟の特性は壊されている可能性がありました。

 どういうことかと言うと、オーディションに来たシンガーがいるとしましょう。彼(または彼女)は実に、巧みに歌いました。立ち会った殆どのスタッフは感心します。しかし私はその完成した感じが気になるはずです。もう、プロデュースする余地がないということかもしれないのです。私は彼(または彼女)に聞きます。そしてオーディションに受かるために先生について、猛練習をしたことを知ります。CDを出すこと自体を目的にしてしまったのです。それを非難は出来ませんし、否定も出来ません。しかし、アーティストへの道をとる者にとってはこれはマイナスです。歌を、音楽を誰のために、誰に向けて発信するか間違っているからです。

 岡井さんは一度会ってもらえば、その心配はない杞憂だと言いました。もうひとつの心配はフリッパーズも重要な時期に入っていたからです。こちらには現場のプロデューサーとして吉田仁さんが、プロモーションにはチェリーと呼ばれる入社2年目の精鋭がついていましたが、まだまだ目が離せませんでした。
岡井さんの私への説得は強いものでした。私は私でデモの中にあった「想像の産物」と仮タイトルのついた曲が気になっていました。竹内まりやさんの時もそうでした。川原さんから頂いたカセット・テープの中の、たったワンコーラスのソロ部分に惹かれたのは、ずっと探していた声そのものだったからです。結局私は「想像の産物」に負けました。それは90年代に向かって、いつの頃からか探し始めたものに、極似していたのです。岡井さんはその間に2つの難問を解決していました。Lefty In The Rightという新グループ名と、新規レーベル名のウイッツを用意したのです。その意気込みとポップなセンスに完敗しました。